TEL:0761-43-1522 石川県小松市
名物「小松うどん」のお店
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小松うどんとは

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小松うどん定義八か条

  • 一、小松市内で製造された麺であるべし
  • 一、手打ち、手打ち風のものであるべし
  • 一、加水量は、小麦粉重量に対して35%w.w以上52%w.w未満を基準とするべし
  • 一、食塩水濃度10%を基準とするべし
  • 一、白山水系の水で仕込むべし
  • 一、出汁は、うるめ・むろあじ・さば節等を主に用い、昆布はふんだんに使いひくべし
  • 一、具材は“じのもん”を出来る限り使うべし
  • 一、こまつの発展を願い、茹で上げるべし

小松うどんつるつる創研

「小松うどん」とは

加賀藩お墨付きの名物。松尾芭蕉も称賛。

「加賀藩の名物は何か」
「はっ、小松のうどんでございます」
と、そんな会話が実際にあったかどうかは分かりませんが、江戸時代に幕府の巡見使に加賀藩の名物を聞かれたら、金沢の象嵌鐙(ぞうがんあぶみ)と染手綱(そめたづな)、小松の長機二重堅絹(ふたえかたぎぬ)と干饂飩(かんうどん)を答えることになっていたと、江戸時代宝暦5年(1755年)の『御国御目付衆江御答帳(おんくにおんめつけしゅうへおんこたえちょう)』という書物に書かれています。
それより前の元禄2年(1689年)には、小松のうどんはあの松尾芭蕉にも贈られていました。奥の細道の旅の途中、小松の俳人・村井屋塵生(むらいや じんせい)が乾うどん二箱を届けたのに対し、松尾芭蕉が「殊に珍敷(めずらしき)乾うどん」をありがとうと書いた返書が残されています。
さらに元禄7年(1694年)の『小松旧記』でも、小松町奉行から加賀藩の台所奉行にあてた返書『干饂飩のこと』の中に、うどんについての細かい注文と、製造者として八日市町の亀屋徳右衛門の名が記されています。
徳右衛門は、注文どおり小麦の二番粉を使い、普通は足で踏んで練るところを特別に手で練り、炭火で乾燥して仕上げたといいます。でき上がったうどんは、藍で「亀」と印を押し、墨で「干うどん」と書いた紙に包んで贈られたそうです。

小松が発祥、うどんの名店。

明治30年(1897年)、鉄道が開通する直前の小松駅近くの角に『加登長(かどちょう)』といううどん屋ができ、うどんは広く庶民が味わえる食べ物になりました。その店を開いたのは、初の公選小松市長・和田伝四郎氏の叔父・和田長平氏でした。
加登長は人気店となり、暖簾分けによって石川県内に次々と店が増えていきましたが、現在小松市内には加登長の店舗は残っておらず、この名称がなくなってしまったことが惜しまれます。
現在金沢市でよく見かける「加登長」が、実は小松で誕生した大衆的な「小松うどん」のルーツであることは、今ではほとんど知られていません。
明治38年(1905年)には、小松市民になじみ深い『中佐』が開業しました。中佐はその後「本店」や「西店」、「中店」などを開いて計5店舗になり、これらの店で修行を積んだ人たちが、中佐の味にあやかって『中石』『中音』『中定』『中芳』など「中」のついた屋号で独立していきました。小松は知る人ぞ知るうどん所となったのです。

ノボリが目じるし、約70店舗!

のぼりが目じるし、約70店舗!

そして現在、観光や商用で小松市を訪れる人、また都会などから里帰りする人の多くは、「小松のうどんはうまい!」といいます。
300年以上も前から小松の名物だったうどん、小松の町衆に愛され続けてきたうどんを、もっともっと知ってほしい!うどんを「まちづくり」に活かしたい!!という思いが結集し、平成22年に「小松うどんつるつる創研」が誕生。加盟店を募って「小松うどん」のブランド化を進めました。
現在、えんじ色のノボリはためく加盟店は約70店舗。小松うどんの“定義八か条”に従いながら、各店舗で工夫を凝らした味を提供しています。
小松うどんは、細めで程よいコシがあり、つるつるしこしことしたのど越しと食べやすさが特徴の麺と、魚節や昆布をふんだんに使ったあっさりとした味わいの出汁、この相性が抜群なのが特徴です。この基本路線は守りながらも、様々なレシピを開発している店もあるので、あちらこちらの加盟店で様々な小松うどんを味わってみてください。